飛鳥時代の墳墓が集まる、王陵の谷

天皇陵の多い磯長谷(しながだに)は、王陵の谷ともいわれ、
敏達・用明・推古・孝徳の各天皇と聖徳太子陵の5基で構成されており、5輪に花開いた
梅の花のように位置することから梅鉢御陵とも言われます。


梅鉢御陵周辺の梅 平成26年

 

聖徳太子磯長墓

 

 

 


30代 敏達天皇河内磯長中尾陵

王陵の谷

31代 用明天皇河内磯長原陵

  
梅鉢御陵
  

33代 推古天皇磯長山田陵






竹内街道

36代 孝徳天皇大阪磯長陵

以下は朝日新聞の記事・平成19年1月20日 朝日新聞夕刊 から

陵めぐる「最古の国道」 竹内街道
新 風景を歩く(63)
 「王陵の谷」と呼ばれる地域が、大阪府太子町とその周辺にある。前方後円墳の敏達天皇陵(6世紀後半、全長113メートル)に、在位36年に及んだ女帝推古天皇陵。「谷」の中央には聖徳太子の墓(叡福寺)もある。遣隋使・小野妹子の墓、蘇我馬子塚……。古代史に名を連ねる、そうそうたる顔ぶれだ。
この聖地を、大和と難波(なにわ)を東西につなぐ最古の官道(国道)が通っていた。現在の竹内(たけのうち)街道(約30キロ)だ。奈良県葛城市から太子町を経て堺市へ延びる。司馬遼太郎は「街道をゆく」で、大和側の街道起点近くにある竹内集落について記している。「竹内峠の山麓(さんろく)はいわば故郷のようなものである」。この地は司馬の母の生地だった。
 標高300メートル近い竹内峠を西へ越え、太子町に入ると、王陵の谷から街道を挟んで北側の丘陵に、波打ちながら続く白いビニールハウスが目の前に広がる。河内特産のデラウェア種のブドウ畑だ。日差しに輝くハウスは、河内地方がブドウの生産日本一を誇った昭和初期をほうふつさせる。
 ブドウといえばワイン。「実は1300年以上も前に、竹内街道を通って初めてワインが飛鳥の都に届けられた」。そんな話を、あるソムリエから聞いた。
■絹の道の終点、美酒香る
 「竹内街道はローマから長安、さらに堺港から仁徳天皇陵の北を抜け、藤原京(奈良県橿原市)へと至る古代の外交路。シルクロードの東端であり、終着点なんです」。郷土史家で竹内街道歴史資料館(大阪府太子町)の前館長、上野勝己さん(67)は話す。町内を通る街道のあちこちに上野さん手作りの案内板が立ち、観光客を「王陵の谷」へいざなう。
 遣唐使がラクダに乗せてワインを運び、竹内街道を経て舒明(じょめい)天皇(在位629〜641年)が飲んだ――。そう推測するのは、奈良ホテル(奈良市)のチーフソムリエ、神崎庄一朗さん(43)だ。
 裏付ける物証が正倉院の宝物にある。金属製の脚を付けた紺色のグラス、紺瑠璃坏(こんるりのつき)だ。「唐の李白もブドウ酒の詩を詠んだ。飛鳥から奈良時代にかけて遣唐使として中国に渡った留学生や僧もワインの味を知っていたはず」と神崎さん。宣教師フランシスコ・ザビエルの書簡などから「日本にワインが届いたのは、ザビエルが1549年に薩摩藩主の島津貴久に献上したのが初めて」と言われる説を笑顔で覆す。
    ◇
 街道は、710年に都が藤原京から平城京に移ると官道としての役割を失った。しかし中世以降に太子信仰が高まり、太子の墓を詣でる「信仰の道」として栄えていく。戦国時代には商人が行き交う「経済の道」に。江戸時代には西国巡礼や伊勢参りの道となり、茶店や旅籠(はたご)が軒を連ねた。
 明治以降、道幅は広がり、戦後も拡幅・舗装が続いた。04年には竹内峠で街道と交差する南阪奈道路が開通。「平成の竹内街道」とも呼ばれる。それでも、曲線が続く資料館そばの坂道を歩けば、茅葺(かやぶ)きと瓦屋根を折衷した大和棟(やまとむね)と呼ばれる独特の家屋や町並みに出会える。
    ◇
 ワインとの縁(えにし)を探し、街道沿いの「河内ワイン」(羽曳野市駒ケ谷)を訪ねた。専務の金銅真代さん(52)によると、河内地方は土壌が豊かでブドウの栽培に適し、大正から昭和初期にワインの醸造が始まった。河内ブドウは当時、山梨・甲府をしのぐ作付面積を誇った。河内産ワインは現在、同社を含む5社が醸造している。
 今月14日、「河内ワイン」の蔵を改造した小ホールで、音楽とワインを楽しむ会があり、ワイン好き60人近くが集まった。
 発案したのは金銅さんだ。専業主婦だったが、7年前に夫が急逝し、経営を委ねられた。地元の人にワインに親しんでもらうことが販路拡大につながると奮い立ち、ワインアドバイザーの資格を取った。街道を歩く人が気軽に立ち寄れるよう夫が建てた「ワイン館」でうんちくを語り、欧州に飛んでは学生時代に鍛えたフランス語で名門ワインの買い付けも試みる。「ワインと竹内街道との間には1300年の歴史があるんだから、河内ワインをもっと広めたい」。金銅さんの夢は膨らむ。
 底冷えのする夜、河内産の赤ワインを開けた。こくのある酸味が口中に広がる。古代の都びとを酔わせたのは、どんな味だったのか。想像が頭を巡った。
<アクセス>
 近鉄南大阪線の大阪阿部野橋駅から約30分で上ノ太子駅(羽曳野市飛鳥)。駅の北が竹内街道。駅前にレンタサイクルも。
<探索コース>
 竹内街道の南側、太子町に隣接する河南町の「近つ飛鳥風土記の丘」に府立近つ飛鳥博物館(0721・93・8321)がある。「近つ」とは古代・難波宮から近い飛鳥(河内の飛鳥)を意味する。「遠つ飛鳥」は奈良県明日香村(大和の飛鳥)のこと。博物館は、古代の国際交流と国家の形成過程をテーマに、94年開館した。
 近鉄長野線喜志駅から金剛バス「阪南ネオポリス」行きで、終点下車すぐ。博物館北側には、聖徳太子墓や敏達天皇陵、推古天皇陵など飛鳥時代の大王級の古墳が点在する。
<味な逸品>
 ワインに合う食材といえば、ハム・ソーセージ。竹内街道の沿線には地場産業の食肉会社が多い。その一つ、羽曳野市向野の「タケダハム」本社工場を訪ねた。
 竹田清社長(75)は戦後、食肉販売を手がけていたが、ハム・ソーセージのおいしさにひかれ、54年に創業。創意工夫を重ねて成長し、78年には京都生協(京都市)の求めで発色剤を使わない「無塩せきハム・ソーセージ」の開発に成功した。主力商品は「熟成ロースハム」と「熟成ベーコン」「熟成あらびきウインナー」。「鹿児島産の国産豚肉をじっくりと熟成し、ハム本来のおいしさにこだわって仕上げた本物志向の一品」と竹田社長。
 04年に南阪奈道路が開通した際、「平成の竹内街道」と提唱したのが竹田社長だ。羽曳野市商工会長も務めており、「羽曳野にも『道の駅』を」と提言。6月には南阪奈道路の側道沿いに「道の駅 しらとりの郷・羽曳野」(同市埴生野)がオープンする。ワインやハムなど地場の製品を紹介・販売する拠点になりそうだ。
平成19年1月20日 朝日新聞夕刊

天皇陵についての話題・

以下は読売新聞の記事から。

2005年05月08日(日)
10天皇陵の指定、昭和10〜30年代に見直しを検討  歴代天皇や皇族の陵墓と、その可能性のある陵墓参考地について、宮内庁(旧宮内省)が戦前から戦中、戦後の昭和30年代にかけて、一部指定の見直しを本格的に検討していたことが、同庁の内部資料で明らかになった。
 25代武烈、26代継体、85代仲恭など10か所の天皇陵については、自らの指定が誤っている可能性を認めており注目される。
宮内庁は現在、現行の陵墓指定を見直す考えはないとの方針を貫いているが、皇国史観の影響が強かった時代ですら、再検討が行われていた事実が判明したことで、学問的な成果を反映した陵墓の指定見直しを求める声が一段と高まりそうだ。
 問題の資料は、「臨時陵墓調査委員会書類及資料」(1935〜44年)や「陵墓参考地一覧」(1949年10月調と58年3月調の2冊)など。
陵墓を研究している田園調布学園大短大部の外池昇助教授(近世史)が情報公開法に基づいて閲覧し、初めて公となった。
 現在、宮内庁は「皇霊の静謐(せいひつ)を守るため」という理由で、研究者ですら原則として陵墓への立ち入りを認めていない。
陵墓の指定は大部分が幕末から明治初期にかけて行われ、現在もほとんどが当時のまま踏襲されている。
しかし、戦後の学問の進歩によって、指定が間違っていることがはっきりしたケースでも、同庁は指定の変更を一切行っておらず、過去に見直しが検討されたことがある事実も公表してこなかった。
 1935〜44年に活動した宮内大臣(当時)の諮問機関「臨時陵墓調査委員会」の資料で注目されるのは、大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳が継体天皇陵である可能性が極めて高く、「陵墓参考地に編入すべし」と答申した点。
これは、近くの太田茶臼山古墳を継体天皇の「三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」としていた自らの指定に事実上、疑義を突き付けるものだった。
 また1949年の「陵墓参考地一覧」には、すでに確定している天皇陵の他の候補として9つの事例が記載されており、その中でも、武烈陵については「現御陵に疑問があり」、仲恭天皇を被葬者として想定した東山本町陵墓参考地については「現陵よりも確かなり」との記述があった。 これらは57年までに書き込まれたものとみられる。 このほか、「永く保存」、「解除可能」(15件)などの注記もあった。
 宮内庁はこうした考証に基づいて、昭和30年代には現地調査も実施しており、陵墓の再編に向けて踏み込んだ検討が行われた事実がうかがわれる。
しかし、いずれも変更の手続きは実行されず、陵墓指定はほぼ当時のままとなっている。
 宮内庁陵墓課の話「戦後しばらくは組織縮小などもあり、陵墓参考地すべてを抱えていられないという事情もあったのだろう。ただ、100パーセント確実な資料が見つからない限り、陵墓や参考地の変更はむずかしい」  ◆陵墓=天皇、皇后、皇太后などの墓所を「陵」、その他の皇族の墓所を「墓」、皇族の墓である可能性があるものとして、被葬者を特定せず、宮内庁が管理している墓所を「陵墓参考地」と呼ぶ。
現在、「陵」が188、「墓」が552、「参考地」が46ある。このほか、天皇の分骨所や火葬塚、灰塚などが110あり、陵墓全体では896か所となる。歴代のすべての天皇陵は確定しているが、古墳時代までの42代の天皇陵に限ると、考古学的には天智陵(京都市)、天武・持統陵(奈良県明日香村)の2基しか確実ではないとされる。

 

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